13周年と死について

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ここに書くことが適切かどうかはわかりませんが、ワンタッチソフトは私にとって分身のようなものですので、気持ちの整理として書かせていただきます。

まず、本日をもってワンタッチソフトは13周年を迎えることができました。ありがとうございます。今後も、私が生きている限り何十年でも運営を続けてまいりますので、引き続きよろしくお願いいたします。

今回書きたいのは13周年についてではなく、母が亡くなったことについてです。完全に私的なことであり、人の生死についてとやかく書くのは好きではないのですが、どこかに吐き出さないと整理がつかない気がしているので、冒頭で述べた理由の通りあえてここに書かせていただきます。

亡くなる当日朝、往診に来ていただいていた担当医より、「昼までもたないかもしれないので、息子のあなたは早くこちらに来たほうがいい」との電話連絡がありました。7時ころでした。

その時間から可能な限り一番早い飛行機を予約し、羽田空港から北九州まで行きました。実家についたのは11時半ころでした。

着いたところ、訪問看護の看護師の方がお世話をしてくれていました。昼までかもしれないと言われていたのにまだいてくれたのです。

ただ、痛みが特に酷かったらしく、モルヒネの点滴と痛み止めの座薬が投与された状態だったとのことです。座薬は特に効きが強い半面、意識が朦朧とします。私が着いた頃はまだ普通に話せるような状態だったのですが、だんだんと眠っていきました。

苦しむような感じがなく、あまりにも自然に寝ているようだったので、なんだかんだでまた元気になるんじゃないかと錯覚するほどでした。

それから約3時間後、薬が切れてきたのか、いたがるような何かすこし訴えかけるような感じがあったので、少し迷いましたが、私はモルヒネを一発打つボタンを押しました。

これが良かったのかどうか、今でも悩んでいます。これを打ったことにより、さらに深い眠りに入ってしまいました。「痛い」という言葉はこの耳で聞いていません。素振りから私が判断した結果です。もしかしたら痛くないけど意識が冷めてきて、何か話したかったのかもしれません。

でも、この数十分後くらいに、私の顔を見ながら名前を呼び、笑ってくれました。意識が朦朧とする中でも、ちゃんと私がいることをわかってくれていたのがとてもうれしく思えました。

息を引き取ったのはそれから約2時間後でした。

息がおかしかった(今思えば努力呼吸というやつだったのかも)のでずーっと顔を見ていたところ、ふっと息を吐いて呼吸が止まったように感じました。その瞬間は本当に止まったのかどうなのかはっきりわかりませんでした。ただ、本能的というか何なのかわかりませんが、いま死んだんだなというのはどこかで感じました。

でもそのときはまだ寝ているだけかもしれないという気持ちが半分あったので、口に手の甲をかざしたり、身体を揺すってみたりしましたが、どうやら亡くなっているようです。

私の場合、事前(当日はもとより、数ヶ月前より)に先は長くないということを知っていたこともあるかもしれませんが、その瞬間に関しては悲しみというのはあまりこみ上げてきませんでした。

その後、看護師の人と顔や手を拭いたり(エンゼルケアって言うらしいですね)しましたが、そのあたりからだんだんと悲しみが出てきたように感じます。

一通りの作業を終えて最後看護師の方が帰られるとき、「○○さーん、また向こうで会おうねー」って話しかけてくれていたのがとても嬉しかったし、印象に残っています。

その後、骨となり今に至ります。

そして実際に亡くなった後、私の中にあるのはいくつかの後悔です。

「ああしておけばよかった」などというのは、いまだから浮かんでくるものだというのはわかっているつもりで、身内を亡くした人のブログとかなんとかとかを見たりしましたが、やはりそれで消えるようなものではありません。

一番大きなものとしては、もっとちゃんと話しておけばよかった、ということです。

ちょくちょくLINEで何かしらメッセージが来たりしていたのですが、私は読むだけ読んでいましたが特にあまり返信をしたりはしていませんでした。内容はちゃんと読んでいて、そのときどきで「よかったね」とか「大丈夫?」とか心の中で感じてはいたものの、メッセージにして返信するということはあまりしていなかったのです。

いろいろお金のこととかでたまに喧嘩したりすることがあったので、「あの子は私のことが嫌いだから無視してる」と思っていたかもしれません。私としてみれば全然そんなことはないのですが、言葉にしないと伝わらないわけです。その当たり前のことに今になってやっと気づいたわけです。

私は母子家庭でしかも一人っ子だったため、母から見て家族といえば私と叔母(母の姉)くらいしかいませんでした。就職で4年前に福岡から東京に来たためあまり直接話さなくなってしまっていたので、もっといろいろ話したかったのかなと思います。

でも楽しい思い出もたくさんあります。書いたらきりがありません。

私のためにいろいろ頑張ってもくれました。

子供のころ、足首にガムテープの芯がハマってうっ血したとき、必死になってバラしてくれたり、私が不登校になったとき、フリースクールを一生懸命探してくれたり、盲腸で入院手術したときずっと横にいてくれたり、運動会のとき大きなお弁当箱もってきてくれたり、いま文字を打っているローマ字も教えてくれました。

情報系の資格試験に受かったときに喜んでくれました。運転免許をとったという些細なことでもとても喜んでくれました。

なにより悲しいのは、今後節々でそうしたことを私が報告しても喜んでくれないことです。

中型トラックの免許取ったこともまだ言ってなかったし、7月から福岡の会社に転職するのも、まだ細かく言えてませんでした。どっちもゴールデンウィークに帰省したときに言おうと思っていたのにその一週間前にいなくなってしまいました。ゴールデンウィークに担当医の人と今後の話もしようねとも言っていたのに。私もゴールデンウィークの帰省用飛行機ちゃんと予約していたのに。

あと、私は小さい頃からバスの運転士になるってずっと言ってて今はなぜかSEやってますが、10年以内にはバスの運転士になるつもりです。大型二種免許も来年取るつもりです。私の中で、「ついにバスの運転士になったよ」と母に言うのが目標というか夢でもありました。でもそれができなくなってしまいました。なによりもこれが一番悲しいし心残りです。昔っからの夢を叶えてバスの運転士になっても、経緯まで含めて一緒に喜んでくれるひとがもういないのです。

これからのこと、転職もそうですし、もしかしたらクビになるかもしれないし、大型二種取るし、運転士の前に配送ドライバーになるかもしれないし、友達とどこかいくかもしれないし。日常の些細なことでも「よかったね」とか「そうなんやね」とか言ってくれる人がいなくなったのが本当に一番悲しいです。

それと、私はいままで、死にたいとか消えたいとかよく思っていました。学生の頃、別のブログにそんな事書いてたら、どこからか知っていたらしく、とても心配されました。でも、母が亡くなったことによって、そう思うことがなくなりました。私が死んだら、母が生きていた証が無くなってしまう気がするからです。

母の根本的な死因は子宮頸がんです。もしかしたら私ができたときに羅患したかもしれない、それこそ命がけで産んでくれたんですから、どんな人生になろうとも、病死か寿命か事故死かわかりませんが、その時まで生きようと本当に思えるようになりました。最後の教育だったのかなと勝手に思っています。

多分天国で私のことを待ってくれていると思います。「急がんでいいけゆっくりおいで」と。他の人のブログとかにも書かれていましたが、私が死んで向こうに行ったとき、たとえつまらない人生だったとしても、ちゃんと最後まで生きて来たんだよと胸を張って笑顔で会えるようにしたいです。母さんより長生きできたよ!と皮肉まじりに言ってみたいです。うわー、ずるーいって言ってくれるかもしれません。


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